ゆったり歴史めぐりコース(門司)

有名なアインシュタイン博士が宿泊した旧門司三井倶楽部や「海の美貌」と謳われた北九州市旧大阪商船など、それぞれのスポットを歩いて周ることができるコースです。
門司港レトロ地区の中心施設である「海峡プラザ」では、地元の海産物やお土産をはじめ、門司港名物の焼きカレー、バナナの叩きり発祥の地にちなんだバナナスイーツなど地元のグルメを味わえるレストランもあります。ゆったりと歴史を感じながらショッピングも楽しんでみては?

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旧門司三井倶楽部(本館、附属屋)

 旧門司三井倶楽部は、大正10(1921)年に三井物産株式会社門司支店が山手の新興住宅地、谷町に建設した接客施設です。建物は接客用の洋風の本館と、サービスのための設備を備えた和風の附属屋から構成されています。 本館は木造2階建で、中央の大きなスレート屋根に切妻の小さな屋根窓を設けています。外壁は瓦張りの下地の上に、1階は人造石洗い出し壁、2階や出窓の部分をハーフティンバーとし、ドイツ壁と呼ばれる表面が凹凸のモルタル掃付け壁が施されています。ドイツ壁は当時の流行であり、変化に富んだ外観を形作っています。
 本館1階はホールを中心に、食堂、応接室、客間が配置され、2階には居間や寝室や浴室があります。本館の背面に取り付いているサービス用の附属屋は、管理人などの住居として使用されていました。
 谷町にあった時、旧門司三井倶楽部のすぐ裏手には、三井物産門司支店長宅が配置されていました。昭和24(1949)年の財閥解体をきっかけに旧国鉄が買収。その後は「門鉄会館」と呼ばれる宿泊施設として利用されてきました。
 本館・附属屋とも戦前までの改造はほとんどなかったようです。戦後、本館の小屋裏に物置部屋を設け、昭和30年代に2階の寝室を宿泊施設にするために和室へ改造されました。また、屋根は石綿スレート葺へ葺き替えられ、外側の木部のペイントカラーの変更、内装材や照明器具の改変などが実施されています。改造の際には、附属屋の炊事場も拡張されました。
 さらに、平成2(1990)年には北九州市が建物を譲り受け、本館と附属屋をJR門司港駅前に移築しました。現在も旧所在地の近くに屋根窓の付いた大きな勾配屋根の旧三井物産社宅があり、かつての門司の経済力の大きさを伺うことができます。長らく不明だった設計者は、門司港駅前への移転に伴う解体調査で松田昌平であることが明らかになりました。移転修理に伴い、壁紙や絨毯の復原には可能な限りの努力が払われ、屋根も当初の天然スレート葺に復原されました。このような保存・復原の取り組みは緻密な調査の成果によるものです。旧門司三井倶楽部は国の重要文化財に指定されました。
 現在この建物は、レストラン、集会場、演奏会場など、市民の憩いの施設として再生・活用されています。そのため、空調設備や複数のトイレ、防火構造の厨房など、活用のための設備が設けられました。
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北九州市旧大阪商船

 明治17(1884)年に設立された海運会社・大阪商船の、門司支店として使われていたのがこの建物です。大阪商船は下関や博多、徳島、長崎、熊本、広島に支店を広げながら船での輸送を中心に業務を拡大。明治22(1889)年の門司港特別輸出港指定をきっかけに、明治24(1891)年に門司営業所を開設しました。明治30(1897)年には赤間関支店所属から独立して門司支店に昇格しています。
 大正6(1917)年に竣工した社屋は建物の角にある八角形の塔が特徴。当時門司で一番高い建物でランドマークのような存在でした。1階には待合室と税関の事務所があり、2階はほぼ仕切りがなくワンルームで利用されていた事務室。3階は電話交換室や便所、倉庫がありました。
 設計したのは、大阪の建築士の草分けと言われた河合幾次で、建物は正面と背面で異なる珍しい構造です。建物の西と北面の道路側は煉瓦型枠の鉄筋コンクリート造、木造モルタル仕上げ。塔屋のデザインはゼツェシオン様式でまとめられていて、塔にある2つの大きなアーチ窓とその上の八角形の塔屋の部分が特に印象的です。
 竣工当時は建物の前面道路のすぐ横に海があり、利用者は目の前の桟橋から横付けされた船に乗り込んでいたそうです。隣には旧門司水上警察、その隣に旧日本郵船門司支店が並んでいて、それら3つの近代建築は門司港の繁栄を象徴していました。
今は北九州市の所有物ですが、建設当初から同じ所有者が自社ビルとして使っていたという点も特徴です。
 当時の門司港は大陸航路の一大拠点でした。旧大阪商船のビルも日清戦争後に朝鮮や台湾、その後大連や中国大陸へ航路の拠点となり、昭和10(1935)年ごろに最盛期を迎えます。
 大阪商船は店員57人、揚げ荷40万トン、乗船客11万人、上陸客17万人を数え、揚げ荷量は日本で5番目を記録していました。また130隻の商船、53万トンの船舶も有していて、世界で第8位の海運会社でもありました。
 昭和39(1964)年に大阪商船と三井船舶が合併したことで、建物は「商船三井ビル」に呼び名が変わります。平成3(1991)年に北九州市が建物を取得し、平成6(1994)年に失われていた外壁の両端にあった装飾(ペディメント)、軒廻りのパラペット、屋根窓(ドーマー)、1階の外部通路などを復原しました。
 現在、1階はギャラリーやカフェとして、2階は貸ホールとして使用されています。    
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旧門司税関

 旧門司税関は、明治45(1912)年に建設された税関庁舎です。初代は完成してすぐに火事で焼失したため、現存する建物が二代目になります。昭和2(1927)年に三代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成するまで使用されました。
 当初は、明治22(1889)年に門司港が石炭、米、麦、麦粉、硫黄を扱う国の特別輸出港に指定されたことに伴って、長崎税関の出張所として設けられました。開港後は輸出だけでなく輸入も順調に伸び、明治34(1901)年には貿易額で長崎港を上回るようになります。大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展したことから、明治42(1909)年11月5日に長崎税関から独立し、日本で7番目の税関として発足しました。
 現在の旧門司税関は、初代庁舎の跡地に建てられたものです。妻木頼黄(つまきよりなか)による指導のもと、建築技師の咲寿栄一によって設計されました。
 妻木頼黄は幕末に幕府旗本の息子として生まれ、のちに明治建築界の三大巨匠の一人に数えられたほど著名な建築家です。明治16(1883)年に渡米しコーネル大学で建築を学び、その後内務省の臨時建築局在籍時にドイツに派遣され、主にエンデ&ベックマン事務所に在籍。帰国後は東京裁判所、日本勧業銀行や大蔵省をはじめ数多くの官庁設計を手がけました。旧門司税関は、妻木が関与した現存する数少ない建築物の一つです。
 税関庁舎として使用された期間は短く、昭和2(1927)年に税関が西海岸へ移転した後は、民間へ払い下げられて事務所ビルとして利用されました。
 さらに、昭和20(1945)年の門司空襲によって屋根がなくなり、戦後は窓を塞いで倉庫に転用。その際に、海側両翼部および内部2階の床組から内装に至るまでのすべてが撤去され、建築当初の面影もないほどに荒廃してしまいました。
 しかし、妻木頼黄の監修による建物で現存する希少なものであり、明治時代の赤煉瓦建築として極めて優れていることから、当時の北九州市港湾局が建物を取得。門司港湾地域の観光復興と活性化のため、平成3(1991)年から4年の歳月をかけて建物の復元作業が実施されました。平成7(1995)年3月25日には、他の施設とともに「門司港レトロ」がグランドオープン。「旧門司税関」として往時の姿を取り戻したのです。
 1階は吹き抜けの広々としたエントランスホールや休憩室、喫茶店のほか、常設の門司税関広報展示室があり、市民の憩いの場や多目的ホールとして活用されています。

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